東日本大震災被災地支援活動報告

■ 事務局 吉岡 泰毅「東日本大震災地への医療支援活動に参加して」
<2011年 4月16日(土)~4月20日(水)>

この度、4月16日から20日までの5日間、JMATのメンバーとして兵庫県医師会医療支援チームに加わり、宮城県石巻市での医療支援活動に従事することがでました。

当時は仙台空港が利用できず、伊丹空港から山形空港を経由し、陸路で石巻市内の被災地に入りました。途中、高速道路を走る自衛隊車両と復興支援用車両の多さに驚きながらも、 あまり震災を感じさせる光景は少なかったのですが、石巻市内に入ると同時にその市内の姿に驚きとともに悲しさがあふれました。

津波が襲ってきた街に泥水のラインがくっきりと残っています。交通の障害にならないように、海水をかぶった家財道具が道の至る所に積み上げられ、撤去されるのを待っていました。

兵庫県医師会災害医療支援の拠点は、小高い丘の上にある石巻中学校の2階にあり、私達は、午後1時過ぎに到着し、前チームとの引き継ぎが行われました。私は姫路市医師会事務局の 湯浅氏から住吉中学校での医療支援活動をするための事務引き継ぎを受けました。救護所での診療時間、カルテの整理方法、薬剤その他の調達方法、受診患者さんへの対応等、また診療終了後 宿泊地の仙台市内への移動方法等について細かく説明をしていただき、緊張の中にも安心して5日間の支援活動をスタートさせることができました。

さっそく、その日の午後3時からの午後診療のために、尾松先生、兒島先生、薬剤師の日高先生と私の4名で、途中悪路を通りながら、約10分くらいで住吉中学校に到着し、避難所のある 体育館に入りました。

住吉中学校には、約200名の被災者の方が避難されておりますが、私達が従事する診療時間帯にはほとんどの方が家の掃除や仕事で出かけておられ、残っておられる方は、お年寄りの方が ほとんどで、最初に体育館に入って感じたことは、整然と区切られたスペースの中でみんなが静かにじっと耐えておられるように感じました。

診察を希望される方は、高血圧、咳、胃の痛みが主で、40日以上続く長期間の避難所生活での心労と毎日配られる「おにぎり、カップラーメン、パン」という食生活で、私がいた間で一度だけ サラダがでましたが、野菜類がほとんどありません。また避難者の方からは魚が食べたいとの声もよく聞きました。診療後のミーティングでも野菜ジュース、お粥、家庭用常備薬の補充が必要との 意見がだされていました。

私がいた期間には学校の再開問題がおこっており、特に石巻中学校の避難所は体育館と普通教室の両方で避難生活を送っておられ、行き先が決まらない現状での再開には、目途がたって いない状況でした。

一方、住吉中学校は、もともと1週間ほど体育館も浸水していたため、水のひいた段階で避難者の方全員が体育館1階に移り、協力し合って清掃し、その後グループを4つに分け、それぞれの グループでリーダーを決め、自治組織化されていましたので、配給物の仕分けも、日々の清掃もきっちりとされておりました。またその時にはすでに普通教室から被災者の方全員が体育館に移られて いましたので、予定通り始業式が4月21日に行われることとなっていました。

各避難所には、他府県からの応援職員の方がリーダーとして長期滞在され、そこでの様々な調整役として活躍されていました。
住吉中学校の避難所リーダーは鳥取県の職員の方で、 1カ月間避難所に泊まり込み、一日中ありとあらゆる苦情、要望に対応されていました。私からの些細な質問やお願いごとにも臨機応変に対応いただき、本当に助かりました。トイレで転倒し 骨折する老人の方が3人目となった時にもトイレのスリッパをすぐに変えた方がいいという意見に素直に耳を傾けていただき、その日のうちに平らな普通のスリッパに変わりました。彼は、 「気の休まる時はないけれども、時々避難所の子どもたちの勉強をみてあげている時に、ほっとできます。」と言っておられました。

ここには数人の子どもたちがいましたが、親は子どもどころではないので、体育館を地響きを立てて自由に走りまわっていました。
何人かの子ども(3~4歳) に声をかけましたが、 挨拶の前に小さな手や足がでてきて、叩かれました。子どもたちも今の環境から抜け出せないストレスをどこかで爆発させたくて苦しんでいるのでしょう。ぐっと涙をこらえて笑っているけなげな 姿に言葉が出てきません。

5日間の住吉中学校での医療支援活動で、何ができたのか自分自身に問いかければ、何もできなかったかもしれません。しかし受診された被災者の方が口をそろえて言われていたことは、 「今までこんなに良い先生に診てもらったことはありません。本当にどの先生にも優しくしてもらって、ありがとうございます。元気がでました。どうかよろしくお伝えください。」との言葉でした。
多くの人達が途絶えることなく続けている被災地の一日も早い復興を目指してのバトンリレーの一員に私自身が加わることができ、次の人にバトンを渡せたことが自分自身にとっての大切な体験であり、 ここで出会った被災者の方々からいただいた、思いやりと優しさの心を生涯の宝としていきたいと思います。

また、短い期間ではありましたが、5日間、住吉中学校で共に過ごし、様々なことを教えていただいた薬剤師の日高さんをはじめ、兵庫県医師会の先生方、職員の皆さん、日本看護協会・ 兵庫県看護協会の看護師さん、兵庫県薬剤師会の先生方、そして学生ボランティアの海老名さん達関係者の皆様に心から感謝申し上げます。

空港に向かう車中でも避難所の皆さんの顔が瞼に残り、後ろ髪を引かれる思いで山形空港から帰路につきました。約1時間のフライトで眼下にはネオンのきらびやかな大阪の街が見え、複雑な思いで 胸が痛くなりました。一日も早く東北に暖かい春が訪れ、被災され、傷ついた多くの皆さんの心が癒される日を心から祈っています。