東日本大震災被災地支援活動報告

■ 尾松 芳輝 先生「JMATに参加してきました」
<2011年 4月16日(土)~4月18日(月)>

東日本大震災医療支援活動として、4月16日から2泊3日でJMATのミッションに参加してきました。明石では桜の盛りも過ぎた時期でしたが、東北地方ではまだつぼみの状態で雪もちらつき、 雷も鳴る荒れ模様の中で山形空港に到着しました。約3時間ほどかけて石巻まで高速道路を移動しましたが、地震の影響で路面の痛みがひどく、何度も徐行を繰り返す移動となりました。 石巻に近づくにつれて次第に交通渋滞が激しくなり、市街地にはいると、地震と津波の激しい爪痕が生々しく放置され、信号機は故障し、交通整理もされていないため、よりひどい渋滞となっていました。 普段はあまり見かけないたくさんの自衛隊の車両や、他府県の警察車両が現地で活動していました。沿道の店舗はほとんど営業しているところはなく、泥水をかぶり汚れた外壁をさらしていました。

16日の午後、前任のチームから引き継ぎをして、我々のチームの2泊3日の医療支援活動を開始しました。
兵庫県医師会が活動拠点本部として石巻中学校の1室を借受け、 薬剤および医療物資の管理を行うとともに、避難所におられる方々の診察を行い必要な投薬を行っていました。また、他に住吉中学校、山下小学校、市立図書館、公民館の避難所でも巡回診察を行い ました。咳や鼻水、咽の痛み、下痢、腹痛などといった急性疾患の方が多く、アレルギーや挨のせいか眼科疾患も多く見られました。寒かったこともあり使捨てカイロが原因の低温火傷になった 患者さんもおられました。慢性疾忠の患者さんも多く避難されており、内服薬が枯渇してきている人も多くおられましたが、処方内容を知る手がかりが無く聞き取りをする中で、出来るだけ 同ーの治療継続に繋げるようにしなければならないケースもありました。

避難所で生活しておられる方々は、殆どが自宅を津波で流されるか、大きく壊れるなどして帰るべき自宅を失ってしまった人たちで、 他に生活できる場所のない人たちでした。なかなか自分からは多くを語らない人が多く、体育館のような床面積が広く間仕切りのない空間で毎日寝起きし、プライパシーの保てない状況下で相当ストレスが たまっていることは、それぞれの表情が雄弁に物語っているように思えました。海外メディアが驚きと賞賛の報道をした東北の人々の忍耐強さを、実感させられました。
じっくりとお話しできた人との会話の中で、家族全員が津波にさらわれて行方不明となっている高齢の男性が、これからまた自分ひとりで生きていかなければならないというような苦境の中で、生きる決意のようなことを述べられたのには、 思わず目頭が熱くなってしまいました。
また、避難所で偏った食事しか摂れず、寒さに耐えながら過ごしている内に、糖尿病が悪化し下肢の壊疽をきたし、緊急入院になる人もおられました。

避難所毎の管理運営や支援物資等の流通には、かなりの格差が存在したように想われます。統率力のあるリーダーのおられる避難所では、情報伝達や支援物資の調達が比較的順調に行われて いたようですが、リーダーシップのないところでは、かなり見劣りがする状況で、混乱が続き避難者間でのトラブルも多く発生しているようでした。
また、全国からいろんな団体が、 独自に活動し避難所に出入りしている状況であり、統率する役割を担うところがないため、効率の悪い面も随所に見られ、情報交換や補完し逢えるような支援になっていないと感じられる 場面も多くありました。
ただ、救急医療に関しては全国の赤十字病院から多くの応援部隊が支援に駆けつけ、殆ど被害の無かった石巻赤十字病院を唯一稼働できる基幹病院としてサポートしており、 24時間態勢で救急患者を受け入れてくれていたので、まさに「地獄に仏」という思いで、医療支援活動に従事することが出来ました。市内の診療所はまだ半数にも満たない数しか稼働しておらず、 当分混乱が持続すると想われました。特に石巻市立病院の壊れ方は凄まじく、病院周辺の構造物は殆ど何も残っていないがれきの山となってしまっていました。石巻の心の再生が果たされるのは、 いつの時期になるのか想像の付かない事態であることは、はっきりと認識できました。本当の意味での復興のための支援は、これからはじめて行かなければならないし、地元の方々の意思を尊重しながら、 お手伝いをさせていただかなければならないと思います。

支援活動期問中の我々の宿舎は仙台市内のビジネスホテルであり、石巻仙台間は公共交通機関が破壊されていたため、片道1時間半から3時間の高速道路経由のチャーター便のタクシー旅となっていました。 高速道路の路面は地震で激しく痛めつけられ、随所で50kmの速度規制が敷かれていました。夜に石巻から仙台の宿舎に向かうとき、石巻市内の灯りの消えた真っ暗な道路を、渋滞の車列がのろのろと帰って行く 車中で、なんともいえず寂しいという実感を味わっていました。しかし仙台駅周辺まで帰ってくるとネオンが明るく灯り、空腹を満たしに街に繰り出すには、十分な雰囲気を醸し出していました。 「がんばろう石巻」というスローガンにも励まされ、夕食には仙台名物の「牛タン、タンシチュー、笹かま、宮城の銘酒{日高見}、地ビール」等々、2日間の夜は大変充実した晩餐を食すことが出来ました。

最終日、帰路についたとき近織地方を寒冷前線が通過していたので、飛行機はこれを迂回するコースをとったのですが途中急降下し、一瞬無重力状態を体感できました。30分くらい遅れて 無事に伊丹空港に着陸した時、生還できた喜びを実感し、心の中で密かに機長に感謝しました。