東日本大震災被災地支援活動報告

■ 小山 英治 先生「東日本大震災医療支援チーム 現地レポート」
<2011年 4月28日(木)~4月30日(土)>

非日常的な妙な夢を見ているような気分だった。日本列島の右肩が爛れて呻いているようで、溜息が出るばかりだ。東北には数年前に松島に寄ったことがあるが、石巻は通り過ぎただけで ほとんど記憶に残って無い。かもめがいっぱい飛んでいるのどかな海の風景を思い出すと切なくなってくる。今回の支援要請に恐る恐る手上げしたものの、正直眼科医に何ができるのか不安だった。 場合によっては検死検案の可能性もあり得る。後から専門領域の仕事と聞いて気は楽になった。震災から一月半も経ち、果たして眼科的ニーズがあるのか心配ではあったが、少なくとも 自分にとっても現場立ちあう意義は大きいと思った。
日頃使い慣れぬ携帯を使いこなす必要が出てきた。メーリングリストに入る情報はめまぐるしく、用意すべき物も日々刻々と変化する。 診察基本セット以外に目薬や処置用の器具など考えはじめるときりがない。あれやこれやで大型と機内持ち込みサイズの2個のケースになり、相当重くなったが、結果的には大型ケース1個分無駄に なってしまった。

4月28日飛行機が仙台空港上空に近づくと海岸線近くは茶色っぽくたくさんの水溜まりが見えた。多分水に浸かった場所だ。着陸間際にはなぎ倒された防風林、破壊された家屋の衝撃的な風景が 飛び込んでくる。
 空港に着くとテレビで報道された壮絶な映像からは想像できないほどきれいに片付いていた。自衛隊や米軍が必死で片付けてくれたのだろう。空港を出るとさすがに車や 小型機がフェンスに引っ掛かったままの状態だ。

高速道路は地盤沈下のせいで凸凹がひどく酔いそうになる。しかも連休前で渋滞気味だ。時間がかかる。名取の田園地帯に朝の光を受けてキラキラ光るものがたくさん見えるが、まるで 死んだ虫のように転がっているのは車だった。高速道路の両側には瓦礫の残骸が散らばっている。津波が道路を越えたらしい。のどかな山には桜がちらほら咲いて、まるで何も無かったかのようだ。

石巻の街の被害の様子はyoutubeで予め見ていたが、一月半の間に大きな道の周辺はきれいに片付けてあった。普通の街と何ら変わりがない。崩れた家はほとんど見かけない。よく見ると 電柱に車が突っ込んでいたり、細い路地にはゴミ袋や土嚢が積み上げられて道幅が半分ぐらいになっている。まだほとんどの店がシャッターの降りた状態で再開してないようだ。

本部のある石巻中学に到着。勝手口のような入り口からスリッパに履き替えて、二階へ上がると教室が本部になっている。黒板にはスケジュール表が細かく記載されている。右端の日付は3月12日の ままだ。おそらく3月11日に次の日の日付を書いたままらしい。受付のテーブルがあって、薬局には必要な薬は全て用意されている。ここに到るまで大変な苦労があったのだろう。窓際に診察室が 2診設けてあるが、正直眼科的には明る過ぎた。いかにして暗い部屋を確保するかは難問だ。畳が2枚教壇の上に敷いてあってベッド代わりにしてある。
日赤病院の高橋先生のおかげで、 老眼鏡はもちろんのこと近視用眼鏡が0.25刻みで? 7.0 まで、ソフトコンタクトレンズも? 9.0 まで充分過ぎるほど用意してある。今日はよく晴れていて窓の外では中学生が野球をしている。 運動場の西側には避難者の車が数十台置いてある。午前中は家の片付けなどで車の出入りがはげしい。南西方向に日本製紙の工場の煙突が見える。この工場もかなり破壊されたらしい。早く 再開されないと石巻の雇用の多くが失われる。

仕事始めとして、先ずは石巻中の避難所の視察から始まった。体育館はかなり古く南向きの窓が無い為暗い感じがする。ここは海に近く津波で家が全壊したり、家族を失った人達が避難している 場所だ。昼は片付けにでている人が多く残った人は少ない。疲れた顔色の悪い人が多い。栄養状態の悪さが予想される。支援物資の箱を三段ぐらいに積んで仕切りにしてある。崩れるようにして寝て いる人。狭い空間で足を上げて寝ている人。マスクをして本を読んでいる女の子。何を言っているのかよくわからない入れ墨の老人。中央に女子更衣室用のテント、隅の方には簡易トイレのテントが 張ってある。プライバシーの無い厳しい環境だ。先の見えない苛立からか、前日の夜喧嘩があったらしい。一見して相当なストレスが想像される。比較的ゆっくりした校舎の教室は半壊や浸水で後から 避難してきた人達だ。体育館の人には不公平感や不満があるらしい。

ミーティングで石巻中に残るか、住吉中、公民館、図書館を巡回するか決める。住吉中学の巡回に出かける。ここの体育館は西日が強く当たり、まぶしいくらい明るい。予想された事ではあるが、 待っていても患者さんは来ない。自分から声かけをしないと始まらないのだ。「目の調子の悪い人は居ませんか?」1パーツ毎に声をかけてまわる。疲れた顔をした人も、礼儀正しく丁寧に返事を してくれる。実際には目がゴロゴロする、白内障の経過観察、目やにがでるといった軽症がほとんどだ。先陣の先生のおかげで、さほど重症の人は居ない。但しなんと言っても眼科診療は暗い部屋が 必要で、明るい場所では角膜に外の風景が映って眼内の状態が極めて見にくい。場所は悪いが、トイレの前の靴脱ぎ場が比較的暗くて見易かった。スリットランプを持って中腰の不安定状態で手元も 定まりにくい。住吉中に詰めている看護師さん三人は河口付近の被害のひどかった市民病院からの派遣された人達で、被災当時の事を聞かせてもらった。病院のボイラーの人が何人か亡くなられた らしい。津波は波ではなくて静かに上がってきたらしい。病院の入り口には車が何台も突っ込んで中に入れないそうだ。家族は皆無事だったそうだが、しばらく話をしていると無言になってしまった。 彼女達の瞼の裏に焼き付いたものを想像すると、かける言葉が無くなってしまった。

引き継ぎの時間帯に日眼医副会長の白井先生が来られた。先陣の松本先生のフォローもあって有意義な時間を持つことができた。組み立て式のスリットランプや往診セットと折り畳み式の 暗室の一緒になったものがあるといいとか、マスコミで話題になったVISIONVANがあるといいとか、不十分な経験に基づく意見にもかかわらず熱心に聞いて頂いた。その後白井先生は次の予定地の 福島へ行かれた。

29日の朝は時聞があったので高台の日和山公園から石巻の被災状況を見に行くことになった。関西と比べて一月遅れの桜の満開だ。常日頃は桜にあまり興味のない方だが、いつになくこの時は 美しいと思った。とは言ってもその向こうに見えるのは津波で破壊された街だ。石巻の6万戸の家屋のうち3万戸が流されたらしい。桜と焼け野原のような風景のコントラストが痛ましい。

この日の仕事内容は午前が石巻中、隣の門脇中、午後は公民館を巡回して再び石巻中の診察となった。白内障の経過観察点眼薬希望、長期の避難所生活によるドライアイや眼精疲労、 アレルギー性結膜炎、緑内障の経過観察の為の眼圧測定希望、紛失による老眼鏡作成、ソフトコンタクト希望といった比較的軽症のものがほとんどだ。中には高齢で新生血管緑内障の方で今後の 経過観察をどうするか悩まされるケースもあったが、落ち着いたら近医受診するよう指示した。高熱を伴う急性結膜炎で、アデノウィルス感染か、インフルエンザによるものか悩んだが 抗菌剤点眼で一両日中に改善し安堵させられたケースもあった。ソフトコンタクトレンズの処方はデーターの判っている場合はたやすいが、板付レンズがあれば大まかな値は得ることが判った。 老眼鏡も3、4段階のレンズのうち見やすいものを選んでもらう。この際ざっくりとした処方も仕方が無い。何から何まで揃った日常診療とは迷った経験ができた。

本部のある石巻中と門脇中はどちらも公立中学だが珍しく隣接している。門脇中は新潟県の担当エリアであるが、眼科医の出務は無いと聞いていたので思い切って出張に出かける。行政の 担当の人が「眼科の先生が来ておられます。目の悪い人は今のうちに診てもらって下さい。」と大きい声でアナウンスしてくれた。これが患者さんの掘り起こしには有効だった。アレルギ一、 ドライアイ、飛蚊症など。
ひとつ不満なのは門脇中には次の日には中村雅俊が来たらしいが隣の石巻中には何の連絡も無かったことだ。ちょっと残念だった。公民館は2、3日前まで 石原軍団の炊き出しがあったが、この日は人気も無く寂しい感じだった。ムード作りにはタレントの力もバカにならない。

高台からの被災地の様子だけでは一体何があったのか想像するにはリアリティが無い。お昼の時間を利用してドクター4人で現場の視察に出かけた。石巻中の南の方へ緩やかな坂を降りて いくと突然景色が変わる。ほんの1mか2mの差で世界が全く違う。下の方はまさに見渡す限り何も無い瓦礫の山だ。生活の破片が散乱ししている。

同時に多くの人が亡くなり、未だ行方の判らない人を捜索している現場である。事が通れる道はなんとか確保できている。両側に瓦礫を堆く積んである。焼け焦げてでこぼこに変形した車が 散乱している。ベコベコのとたんや鉄骨。墓石もばらばらになってころがっている。通りがかった人が「ここは文房具屋さんのあった所だ」と基礎だけが残った跡地を指している。「頑張ろう 石巻」の看板が立っている。窓1、2km向こうに見える4、5階建ての真新しい建物が市民病院だ。近々外来を再開するらしいが、廃墟の中を通院するわけだが患者さんも足を確保するのは大変だと 思う。気の遠くなるような光景だ。複雑な気分で本部へと戻る。坂道を上るのは運動不足のせいか結構きつい。被災当日この坂をどんな思いで上ったのだろう。

30日夜中21時頃緊急地震速報が鳴って目が覚める。マグニチュード4. 0 で大した事は無かったが、前日までの反省や提案とか考えているとそのまま寝付けなかった。朝になってタクシーの中で 思いついたことを皆で意見を出し合った。高々2、3日の出務だから大した事はできないのは予め判ってはいたのだが、何かもやもやして不完全燃焼の気分なのだ。太田先生曰く医者は自分の技術を 存分に発揮したいと思っているのに物足りなさを感じたとしても、そのような状況の方が本当は望ましいのだと。地元の医療機関もようやく再開の兆しあり、急性期の重症患者も減り、おおむね 医療支援の最終段階に入はいり、医療の段階から介護の段階に入ってきたという事か。自分としてはどこかあの暗い体育館のイメージが残っていてリラックスできる場所を作ってはどうかと提案した のだが、もっと早い段階ならともかくそろそろ学校も始まりあの人達も出て行かなければならない。次の行き場はどこかという事が最大の問題なのかもしれない。避難所を転々とするのか、半壊の 家に戻るのか、仮設住宅に入るのか、被災者にとってまだまだ先は長い。

帰りの飛行機の窓から「心はひとつ」の横断幕が目に飛び込んでくる。胸に熱いものがこみあげた。
 良き出会いもありました。短い期間でしたが、良き経験をさせて頂き感謝しております。 最後に日本の原郷東北の1日も早い復興を願っています。